- 垣内 俊哉/Toshiya Kakiuchi
- 株式会社ミライロ 代表取締役社長
- 1989年愛知県生まれ。骨形成不全症のため、生まれつき骨が脆く折れやすく、幼少期から車いすで生活を送る。立命館大学経営学部で起業について学ぶ。学生時代から、障害者の視点で大学構内のバリアフリーマップを制作するなど、自身の経験に基づくビジネスプランを多数考案。国内で13の賞を獲得。在学中の2010年、障害を価値に変える「バリアバリュー」を理念に掲げ、株式会社ミライ口を設立。現在は「誰もが使いやすいユニバーサルデザイン」を提案するコンサルタントとして活躍中。当事者視点による的確かつ経済効果の高いユニバーサルデザイン化の実践が支持を受け、コメンテーターやアドバイザーとしても出演・登壇を行う。2015年、日本財団パラリンピックサポートセンター顧問に就任。2016年、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会アドバイザーに就任。Japan Venture Awards 2018 経済産業大臣賞を受賞。
- 「自分は不幸」から「新たな道」へ
- 株式会社ミライロの垣内です。「バリアバリュー」という言葉を紐解きながら、障害とは何かということについて、私の人生をたどってお伝えします。障害者という言葉を聞くとき、それはハンディであり、マイナスであり、かわいそうな人たち、不幸な人たちであると、そのように受け止められています。骨が折れやすく、歩けない私はかつて誰よりも強く思っていました。「自分は不幸だ」と。幼少期から今日まで骨折は20回以上、手術も10数回。人生の5分の1は病室で過ごしました。高校生の時、私は学校を辞め、手術、リハビリテーションに励みました。ここまでやってだめなら仕方がない、そう思えるまで、全力でリハビリを続けました。結果、やはり歩くことは叶いませんでした。それでも最後のリハビリを終えたとき、私の心はどこか晴れ晴れとしていたことを覚えています。全力でやった先にだめだった。だからこそ、新たな道を歩もうと思えたのだと思います。
- 障害があるからこそ出来ることも有るのだ
- それから、歩けなくても出来ること。車いすでもできることを探し始めました。大学に入ってからが、私にとって大きな転機となりました。私は学費、生活費をまかなうためにアルバイトをする必要がありましたが、車いすに乗ってできる仕事は限られていました。それでもウェブページの制作をする会社が私を拾ってくれましたが、出社初日、私が任せられたのは営業の仕事でした。「この資料を持ってお客様の所を回ってこい」と。他の営業担当は1日50件程度回りますが、車いすの私は回れてせいぜい10件程度でした。それでもあきらめずに続けていると、気づけば、その会社で一番の売上げ、結果を残していました。理由はたった1つです。多くの人に憶えてもらえたからです。「また車いすの営業が来ているぞ」と。この時、当時の上司、社長に「障害があることはおまえにとって強みだ、誇りを持て」と言われたことが今でも私を支えています。この日の夜、涙が止まりませんでした。「歩けなくても出来ること」だけではない、「歩けないから、障害があるから出来ること」もあるのだと、新たな光、道を与えてもらいました。
- 株式会社ミライロを立ち上げ
- 自身が気づけたことを日本中へ、そして世界中へ広げていこうと、1年の準備期間を経て、21歳のときに、株式会社ミライロという会社を立ち上げました。1年、2年と経ち、5年目も売上げは大して上がらず、ずっと赤字でした。それでも少しずつ、仕事が、多くの機会を与えられ、気づけば今、日本では東京、大阪、福岡と拠点を3つ構え、50名の仲間と日々事業を行っています。
最初に取り組んだのは、バリアフリーの地図、アクセシビリティの地図を作ることでした。日本国内で障害のある大学生は、3万1千人、全体の0.98%です。私が進学したころは4千9百人でした。より多くの障害者が進学できるように、教育機関のバリアフリー地図を作る。建物の調査もすることで、コンサルティングの仕事にもつながりました。日本は狭い国で、バリアフリー、アクセシビリティには限界がありながらも、「ハードは変えられなくてもハートは変えられる」ということで、障害者や高齢者、多様な方への向き合い方、接し方をトレーニングするユニバーサルマナー研修事業を始めました。まだ民間資格ながらそのプログラムには当社が手がけたユニバーサルマナー検定の資格取得も組み込んでおり、およそ6万人、企業数にして600社がレクチャーを受けました。様々な場所で指導するのは、障害当事者で、彼らの新たな仕事創出につながりました。その他にも障害のある方々の声をものづくりや、サービス開発に反映するため、ミライロ・リサーチというサービスも展開しています。5千人の障害のある方にご登録いただき、実際に製品を使ってもらってアンケートにお答え頂くことで、報酬、対価をお支払いするという、障害のある方の感性を活かす仕事を提供できています。また車いすユーザーが入りやすい店、視覚・聴覚障害のある方々が利用しやすい店、ホテルや旅館、そういう情報を世界各国で集めて発信するアプリを日本財団と開発しました。今、日本語、英語、スペイン語に対応しています。
- 障害とビジネスのウイン・ウイン
- 社会のバリアは大きく分けると3つです。環境のバリア、意識のバリア、情報のバリアです。車いすでも行きやすいように、目が見えない人でも入りやすく、耳が聴こえない人でもコミュニケーションがとりやすいように、そうした店舗や施設、そうした方々が働きやすい環境を作ることがこれからは必要です。それは大きな社会貢献であり、同時に大きなビジネスチャンス、経済活動につながります。最初、大きなプロジェクトとして私達の会社が関わったのが、大阪にあるユニバーサル・スタジオ・ジャパンです。ここは、年間で8万人の障害者が訪れていました。この方々をよくよく調べてみると、ほとんどの人が3~4人のグループで来ていました。つまり障害者(と彼らを取り巻く人たち)を合わせた入場者が32万人(1グループ4人で換算)いることを意味します。この32万人に来てもらうため、アトラクションのバリアフリー化や、従業員、アルバイトに至るまでユニバーサルマナー教育を徹底しました。結果、8万人来ていた障害者は、12万人に増えました。(全体では)32万人の入場者が48万人にまで増えたわけです。投資した分の元が取れたとなって初めて、企業の継続性が実現します。お互いのメリットを見出し、それを伝えることで飲食店のバリアフリー化や働きやすいオフィスの環境づくりも進んで行きます。この日本の事例は必ずや世界でも広げていけます。
- 自分と向き合い、受け入れる
- そもそも人はみな、違って弱いものです。歩ける人もいれば、目が見える人もいれば、耳が聞こえる人もいる。それなのに、なぜ自分だけ、なぜ自分だけと私は悩み続けていました。やはり弱い自分を受け入れられなかったからです。でも、「みな違って、みな弱い」という前提を置くのであれば、それは無意味な質問、時間の無駄であると病室で気づきました。その気付きを確信に変えてくれたのは、(現)パナソニックという会社を創業された松下幸之助さんの本でした。成功した理由はこの3つだと。学歴がなかった、体が弱かった、貧乏だった。だから成功したのだと言っている。すべてはネガティブなことですが、どういうことか。
1.学歴がなかったから人の話をよく聞けた。2.体が弱かったから人に仕事を任せられた。3.貧乏であったからわずかな給料に感謝できた。見方を変えればすべては価値につながっていく。そうしたことに改めて気づきました。最後に今日まで大切にしてきたことをお伝えします。仮に人生の長さを変えることが出来なかったとしても、人生の幅は、いくらでも変えることができる。動くこと、学ぶこと、誰かと出会うことで、人生の幅はいくらでも広げられる。長さではなく、幅にこだわる。そんな時間をこれからみなさんには歩んでいただけたらと思います。みなさんと一緒に私も太く太く、これからを歩んでいけたらと思います。ご清聴ありがとうございました。
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